06-06-06: 読書の姿勢
部屋の容量に比べて書籍の量が多いので、専用の机を置いて読書するなどという営みからは、長らく遠ざかっている。
最も多いのは、食堂の机での読書。自分の座るべき椅子の脇に、読みかけの本がしだいに山を築いてゆくので、家族には著しく不評である。家人が寝静まったあとで、食卓に惨状が展開する。
食卓での読書は、多くが義務的な理由をもつものであるから、たいした時間がたたずとも、飽きてくる。仕事と関係のない本に手が伸びる。と同時に食卓に座っての読書も窮屈に感じられるようになるから、脇の板の間に寝っ転がって読むことになる。あるいは、その窓際にあるベンチチェストに寄っかかっての読書。
ときに夜中に小腹が空くことがある。柿ピーをつまみながら本を読むというのは至福だ。しかし、この食べ物は食するに意外と大きな音がする。特に家人はこの音に敏感で、睡眠を邪魔されたとの苦情を寄せる。それゆえ柿ピーへの食欲が起こったときには読書の場所が変わる。2か所の扉を閉めれば密閉空間となる台所に籠もることになるのである。
壁に寄っかかる形で台所の丸椅子に座って、柿ピーを食しながら本を読む。格別である。喉が渇くが、何か飲み物を飲んでカロリーを取りすぎてもいけないので、何でもないガラスのコップに水道の水を入れて飲む。ぜいたくな気分のときは炭酸水である。
廊下には小さな本棚を設けてあって、そこにはお気に入りの本や辞書を入れられるだけの数だけ備えてある。たいした収容力はないから、ここの本は厳選された少数精鋭である。
夜中、退屈すると廊下に寝そべって、この棚の本をとり出し、つまみのように読む。
廊下には2か所の燈があるので、本は読みやすい。
人の通りがあると踏まれることになるが、幸い夜中に起きているのは私だけである。
安心して廊下に寝ころんで読書ができる。毛布を用意して、このままここで寝てしまいたいぐらいである。
トイレ。これは多くの紳士淑女の読書空間であろう。私の場合、何らかの理由で家庭にいたたまれなくなると、本や雑誌をちょいと持ってトイレに脱出する。用を足すという大義名分が救済の根本にあるわけだが、何度も繰り返せば、さすがの家人も当然察しがつくわけで、
用も足す必要もなく閉じこもっていることを指摘する声がかかる。咎める口調ではないところが、かえって迫力である。
風呂の手前の脱衣室もまた、扉が閉まる小さな空間である。洗濯機に寄っかかって体育座りのような姿で本を読む。風呂掃除の前に古い湯を抜くあいだ、ここでしばしの読書となる。何度か読んだことがある本の、お気に入りの部分を再読するぐらいが時間的にちょうどいい感じである。
好きな文章は、何度でも読みたい。しかも、ほんのわずかな分量でいい場合が多い。その部分を読めば、その前後の何十倍もの文章が自然と頭に蘇ってくるような、そういう部分を含んでいるものは、いい本である。
寝る前に、布団で読む本もまた楽しいが、読書の終了時間を自分で決められないときが少なくないので、私にとっては、意外に適切な場所ではない。
要するに、私の場合、読書行為そのものが漂流しているのであった。